金成山と大岳温泉

私が実家・岩手県奥州市(当時は江刺市)にいたころ、高校は江刺の中心部・岩谷堂に通学していた。
その岩谷堂から東方面・梁川に向かう「大岳温泉行き」の乗合いバスが運行していた。
下校時は温泉の言葉に惹かれたのか、行ったことないバスの終点に憧れたのか、
「大岳温泉行き」のバスを見かける度に、終点の景色を想像し、行ってみたいとバスの後ろ姿を追っかけていた。
羨望の眼差しというか、惹かれるものがあった。

そんな20年以上も前の感情が頭の片隅にあったが、感動した高橋克彦著「火怨」には、

金成山を補給基地の位置付けとされている。
小説なので史実かどうかは不明だが、地図で探すと奥州市に実在することがわかった。

やはり「火炎」ファンとしては現地に行きたいと、想像と憧れが増幅するこの頃だった。

そんな記憶と憧れを持ちながら、その地・梁川の勤務経験がある母に大岳に行ってみる事を告げた。
「あそごさ、大岳丸の碑があっづぉ。」

大岳丸という名は蝦夷、人首丸とネット検索すると、関連で出てくる名だ。

やっぱり地名は由来と密接につながるものだ。
しかし、こんな簡単にえみしに繋がっていいものだろうか。
昔の記憶と、母の経験、そして、小説「火炎」を読んだこと。。。
この3点が一本の線上に繋がったのだ。
運命らしき糸を感じる。

そんな経緯もあり、寒空の下、奥州市江刺区梁川に向かった。
従来、雪深い岩手も近年雪が少なく、舗装道路には雪がまったくない。
雪があるのは、田んぼとあぜ道ぐらいだ。

おぉ~、ここにも月山がある。山岳信仰のためなのだろうか。

この金成山のある地区は「東沢目」というらしい。
地図をみると、米、和牛などの産業も書いてある。

 

山に囲まれた、緩やかな傾斜に点在する農家がある。
道もだんだんと細くなってくると、ちょっとどっしりとした山が見えてきた。
あれが金成山か。

まだ舗装道路だが、道幅は車1台がやっとだ。
そんな道もニョロニョロ進み、山の中腹にくると、地域の保養施設がある。

おっ、あった。堂々とした立派な石碑だ。

隣には由来も書いてある。

『古代エミシの将 大岳丸伝説

坂上田村麻呂 征夷大将軍として東征し、その総大将田村阿波守兼光は
いわい郡鬼死骸村(現一関市)にて蝦夷の首長悪路王を滅ぼし、
更に悪路王の弟大岳丸を栗原郡大岳村(現宮城県)に攻める。

大岳丸は一子人首丸とともに逃れ、日高見川(北上川)河東に脱出し、
毘沙門岩窟(江刺市藤里)を経て、閉伊・気仙・江刺三郡に跨る大森山に陣したが、
人首丸は遂に討死する。
大岳丸は野手崎(梁川)に入り、更に北方に逃れようとするところを、
田村阿波守兼光の軍は南方より、その家臣後藤・柴田の軍は北方より攻撃、
激戦の末、大岳丸はこの地にて討死する。

後に、征夷軍の通った進路を武道坂、大岳丸終焉の地を「大岳」と称し、
この地に不動尊堂が建立されている。

(梁川郷土史による)

平成十年九月
小松原 茂書』

大岳丸と人首丸が親子というのは聞いたことはあるが、
この郷土史によると、悪路王と大岳丸は兄弟になっている。
これはおもしろい。
今度はこの郷土史を探す目的ができた。

 

石碑の前には建立した会の札が倒れていた。

「霊魂不滅  平成18年8月 大岳丸を顕彰する会」とある。

地元の歴史好きの方達であろうか。

さらにこの石碑の横から延びる参道を詰めると社に行く。

能舞台もあるお社だ。

この戦場の地に祭られた社だからだろうか。

お社の壁には刀剣を模した供物が多数ある。

 

今回の地では伝説を見つけたことが大きな収穫だ。

お社を出て、さっきの参道を降りると、武道坂の景色が広がり、
小雪が舞い始めてきた。

 

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